【想いやり】天下人豊臣秀吉に発した家臣を想いやる徳川家康の言葉

終生家臣への想いやりを持ち続けた徳川家康。

 

時の天下人豊臣秀吉に発した言葉からも家康の家臣を想う気持ちが伝わってきます。

 

そんな家康にその生涯で最大のピンチに陥ったことがありました。

 

徳川家康が豊臣秀吉に言った言葉とは?

豊臣秀吉は大阪城が竣工して徳川家康を招き、得意満面に城内を案内し天守の最上階より大阪の城下を眺めながら、

秀吉は自慢げに「これがわしの宝じゃが、家康殿の宝は何でござる」と尋ねた時の、家康の言葉が心に響きます。

家康は秀吉の問いかけに、

「三河武士は宝を持ちません。しかし、あえて宝といえば、私に命を預けてくれる五百騎の武士(もののふ)たちでありましょう」

と答えた。

家臣を想う家康のあたたかい言葉ですね。

 

後に、秀吉が亡くなり、天下を統一することになる家康ですが、

家康の生涯で絶体絶命のピンチに陥った時がありました。

家康自身もうダメだと腹を切って死ぬとまで言ったのですが、家臣たちの必死の説得で家康は自刃を思いとどまります。

そのピンチに陥った出来事の原因というのが、明智光秀が織田信長を討った本能寺の変です。

本能寺の変が起こった時、家康は信長に言われ、大阪見物に行っていました。その時、家臣は数十人しか従えていませんでした。

急いで逃げないと、明智の軍に殺される。でも、逃げ切るのは無理だろうと、殺されるぐらいなら自刃すると家康は言いだしたのだ。

しかし、家臣は諦めずに大阪から脱出する道を選んだのです。

こういった事もあり、家康は自分に命を預けてくれる家臣を宝と言ったのでしょうね。

 

それでは、家康はどのようにして大阪から脱出したのでしょうか?

徳川家康の大阪脱出大作戦!

家康一行は、脱出劇を繰り広げるのにいくつかの峠を越えています。峠といえば思いつくのがだんご屋さんですが、家康一行が通過する峠にだんご屋さんがあったかどうかは分かりませんが、もしあったとしてもだんごを食べる余裕はなかったでしょう…

 

さて、徳川家康が大阪を脱出するこの出来事は、家康の伊賀越え、神君伊賀越えといわれ伝えられています。

この当時、通常ですと大阪から三河に帰るには、京を通り、琵琶湖畔を抜ける街道を通るのですが、京が明智の勢力下になっているので、街道を通行するのは不可能です。

家康が選択した脱出ルートは、大阪山城甲賀伊賀白子へと抜ける最短ルートでした。白子は信長の次男織田信雄が治めているので、そこまで行けば安全と考えたのです。白子まで行けば海を渡り三河へ帰れます。とにかく、白子まで脱出しないと三河まで帰れないのです。

織田信雄は本能寺の変の際、近江国甲賀郡土山まで進軍していたものの、戦わないまま撤退した。戦後の清洲会議で信雄は織田家の後継者になろうとするものの、結局、織田家当主は三法師、信雄は後見役となりました。

 

とにもかくにも、脱出プランが決まったので、いよいよ脱出です!

家康大脱出劇、一日目

 

家康一行は人目につきにくい夜に出発します。まず大阪→山城を目指します。

この時、家康の家臣、本多忠勝は村の長老に次の村まで案内させる。本多忠勝は幼い頃より家康に仕える、徳川四天王の一人である。

この当時、畿内では村の自治が非常に発達していた。そこで村の長老に案内させることで落ち武者狩りを抑制させたのです。

村を通過し、長老の効果も無くなった頃、山賊が現れます。完全武装した山賊相手に勝ち目はありません。

その時、茶屋四郎次郎が金を山賊に渡したのです。金品目当ての山賊は、金を受け取り消えてゆきました。

茶屋四郎次郎は以前家康の家臣だった男で、本能寺の変の知らせを徳川家康一行に早馬で一報した人である。家康の脱出に同行し、この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられることになる。

家康一行は、夜明け前に、木津川を渡り宇治田原にたどり着いた。最初の難関、山城国を突破!

 

家康大脱出劇、二日目

 

家康一行は宇治田原を出て、甲賀の多羅尾光俊の居城・小川城にたどり着いた。多羅尾氏は織田信長に属していたのだ。

多羅尾光俊の五男山口光広が家康と同行していた長谷川秀一と親交があったので、家康を援護することを決め、小川城へと家康一行を招き入れた。家康の伊賀越えには三男光雅や光広らに甲賀衆を付けて伊勢白子まで道中警固させた。

多羅尾光俊は天正12年(1584)に伊賀越えの際の功労から山城・近江国内に所領を与えられた。山口光広は徳川家に通じていることを豊臣秀吉に嫌われて養父の遺領を没収されたが、家康からは信楽に600石の朱印状を与えられた。

家康一行は、小川城で一夜を過ごします。

 

家康大脱出劇、三日目

 

家康一行は、宮田氏の手勢に守られながら、ついに伊賀へと踏み入れます。

宮田氏というのは、伊賀入り口の丸柱を領地とする土豪です。家康が天正伊賀の乱の時に三河まで逃れてきた伊賀の地侍たちを信長の意に反して匿って救ったことを宮田氏は知っていて、その事に恩義を感じ、家康一行の大脱出に協力したのです。

家康はこの時、宮田氏に山川という名馬を贈っています。そして、宮田氏を家臣にすることを確約しています。

家康一行は無事に桜峠を越え、伊賀の入り口からおよそ十五キロ離れた柘植(つげ)という集落にたどり着きます。宮田氏はここからは勢力外となるため引き返しました。

柘植に入った家康は徳永寺に立ち寄ります。寺の住職に、一杯のお茶のお礼にと、門前から見える限りの土地の寄進を約束したのです。

寺へ寄進したことにより寺の檀家である地侍は家康一行の味方になり加太峠越えに同行し、土豪や山賊から守ってくれたのです。

こうして家康一行は、最大の難所・加太峠を突破し、本能寺の変から三日かけての大脱出劇の末に白子にたどり着きました。

 

無事に三河に戻った家康は、助けてくれた伊賀の土豪の多くを家臣の服部半蔵の家臣に召し抱えました。一杯のお茶をもてなしてくれた徳永寺には約束通り土地を寄進しています。

徳永寺のホームページ縁起には以下のように書かれています。

当寺の寺伝では、時の住職崇徳上人のもてなしに感じた家康公は、門前の土地および背後の山林を寺領に認めた書状を下付されたと伝わっている。この書状は、藤堂氏が伊賀に入国して以降は将軍家に返却し、それ以後同じ内容を意味する書状を藤堂氏から代々拝領するに至ったようである。

(浄土宗 平庸山 無量寿院 徳永寺 ホームページ より引用)

 

大坂夏の陣の翌年、元和二年(1616)家康は七十五年の生涯を閉じます。死の三日前、病の床で家康は伊賀越えの道中の様子を突然家臣に語り始めたと伝えられています。

家康にとってあの三日間の大阪からの脱出劇は生涯忘れられないものとなっていたのでしょう。そして、自分は自刃しようといったがそれを制止し、命を捨てる覚悟で家康に同行した家臣、道中で手助けしてくれた人達への感謝の念が終生変わらず家康の心の中にはあったのでしょうね。

 

大阪城で秀吉に発した言葉には、こういった家康の想いが込められていました。

 

徳川家康伊賀越え経路

 

家康一行は、堺見物を終え京に戻ろうとしたところを、現在の四條畷市で、茶屋四郎次郎から信長が本能寺で討たれたと一報を受けました。

 

<家康一行伊賀越え経路>

現在の大阪府四條畷市→山城→宇治田原→甲賀の小川城→伊賀の丸柱→桜峠→柘植(つげ)の徳永寺→加太峠→白子

  • 一日目:現在の大阪府四條畷市→山城→宇治田原
  • 二日目:宇治田原→甲賀の小川城
  • 三日目:甲賀の小川城→伊賀の丸柱→桜峠→柘植(つげ)の徳永寺→加太峠→白子

googleマップで計測すると、四條畷市~白子まで、距離にして107km、徒歩で22時間かかります。休憩なしで、整備された道を歩いて22時間です。家康一行は、整備されてない道なき道峠も歩いています。やはり、最速で歩いたとしても、三日はかかるでしょうね。

それにしても、三日目の小川城~白子までを一日で駆けているのはすごいですね!そこで、もたもたしていたらやられてしまうという気持ちもあったのでしょうけど、それにしても、驚異的です。やはり、だんご屋さんには立ち寄ってないでしょうね(笑)

(※脱出経路、日程には諸説あります。)

 

徳川家康伊賀越え経路の地図(googleマップ活用)