大河ドラマ『麒麟がくる』で本木雅弘さん演じる謎多き斎藤道三!?

 

油売りから身を起こし美濃の国主にまでなった斎藤道三。

 

大河ドラマ『麒麟がくる』では本木雅弘さんが演じ話題になっています。

 

だが道三を描いてある資料は極めて少ない。

 

信長を描いた『信長公記』には、裏切りや暗殺を繰り返し君主を追放した男として描かれ、

 

牛裂きや釜茹でなど残酷な刑を好んだとされている・・・。

 

 

近年の研究で分かった新たな斎藤道三像

 

近年の研究によって、斎藤道三の新たな人物像が浮かび上がってきた。

 

今まで道三一代で成り上がってきたと思われたが、

実は道三の父、長井新左衛門尉親子二代による下克上だったということが新たに分かった。

 

油売りから身を起こしたのは道三の父で、

父の後を継ぎ美濃の国盗りを達成したのが道三だった。

 

今まで語られてきた斎藤道三の話は親子二代での話だったのだ。

 

滋賀県草津市立草津宿街道交流館にその資料はある。

近江の守護大名、六角氏の書状『六角承禎条書写』。

 

永禄三年(1560)七月二十一日に近江の六角承禎が息子の家臣たちに宛てて出した書状に斎藤道三の息子義龍について書かれた書状。

 

斎藤家の先祖は、京都妙覚寺の僧侶だったと書かれている。

そこから西村と称し、美濃の国で侍となる。その後出世し長井と名を変えた。

ここまでは斎藤道三の来歴とし他の資料にも書かれている。

 

しかしこの書状のあるところに注目すると、

 

それは、新左衛門尉という人物につけられた祖父という文字。

斎藤義龍の祖父ということは、これは斎藤道三でなく道三の父ということになる。

 

道三が一人で国盗りをしたのではなく、国盗りへの道を最初に整備していったのは実は新左衛門尉(道三の父)だったのだ。

 

かつての研究では道三一人が成り上がっていったとされてきた。

しかしこの書状によって親子二代による美濃の国盗りであることが浮かび上がった。

 

 

 

いかにして美濃の国主まで成り上がったのか?

 

道三の父は京都で法華宗の僧侶をしていた。

江戸時代に書かれた『美濃国旧記』には、寺をでたのち美濃で油を売る商人になった、とある。

この油売りの経験こそが、その後の出世を解くカギとなる。

 

京都府大山崎町。ここはかつて、灯りをともす油、エゴマ油の生産地として知られている。

生産と販売を担っていたのが神社に仕える神人(じにん)と言われる人達。

彼らは、西日本各地で栽培されていたエゴマを買い付けにいける特権を得ていた。

当時は関所があり通行料を支払は無いと通過できなかったが、山崎の油売りの商人は免除されていた。

広範囲を自由に行き来できた当時の油売り。

かつて法華宗の僧侶だった道三の父は法華宗の商人のネットワークの中で商売を行っていたと考えられる。

油を売りあるく中で彼が目を付けた場所が美濃の国だった。

 

司馬遼太郎が斎藤道三を描いた小説『国盗り物語』でこの地を、美濃を制する者は天下を制する、と称している。

 

美濃は京都と関東の間にあり、街道が通じる交通の要衝。

豊かな穀倉地帯である濃尾平野や長良川などの河川が流れる好条件がそろった土地でもあった。

 

道三の父は美濃の守護代斎藤家に出入りするようになり、行商で得た知識が重宝され、斎藤家の家臣長井家の武士に取り立てられる。この頃名を西村勘九郎と改名する。

さらに戦で多くの武功を上げたことで、長井の性を与えられ、長井新左衛門尉と改名。

道三の父は名前を変えながら、美濃での地位を着々と上げていった。

 

なぜ?彼がそういった出世を遂げることが出来たのは、現在の美濃市一帯を領有したことが大きかったからだ。

ここは当時から上質な和紙の産地で、道三の父はこの経済的拠点を抑え紙の流通を支配することで多額の利益を得ていたとみられる。

次第に美濃での力をつけていった道三の父、当時交わされた文書の中に長井新左衛門の名がいくつもみられる。

しかし、ある時を境にこの名が記録からいっさい見られなくなる。

 

天文2年に長井家から出された書状には長井新九郎規秀と署名されている。

この名こそが、斎藤道三だ。

この書状が書かれた前後に道三の父は病死したと考えられている。

突如現れた長井新九郎規秀こそが斎藤道三である。

 

当時の美濃は、代々守護を務める土岐氏が家督争いを続ける不安定な状態だった。

土岐氏に続いて権力を持っていたのが守護代である斎藤氏。

その重臣であったのが長井氏であり道三は父からナンバー2の地位を引き継いだ。

 

そこから彼は美濃での地位を上げる為、暗躍を始める。

六角氏の書状には、惣領を討ち殺し諸職を奪い取りと書かれている。

長井家の当主を殺害、自らが惣領となり家を乗っ取った。

 

さらに、土岐頼芸と結託し家督争いをしていた土岐頼純を追放。

頼芸を美濃の守護へと押し上げ、道三は頼芸から守護代である斎藤の姓を使う承認を得て、

斎藤利政と名を変えた。

 

父の死からわずか4年ほどで道三は美濃の守護に、ナンバー2の地位まで上りつめたのである。

 

 

 

織田、今川、朝倉など強国に囲まれどのように美濃を発展させたの?

 

道三は信長、秀吉の先生役

 

稲葉山城と呼ばれた道三の居城。織田信長が入城し岐阜城と改めた。

 

信長が入城した際に全面的に改修をしたと考えられていたが、

 

近年の研究で、この城についての新たな説が浮上した。

一部の石垣は道三時代の物であり、信長はそれを使用したのではという仮説をたてている。

斎藤道三は高い築城技術を持っていて、その技術を信長が利用して岐阜城が建設されたという仮説があきらかになりつつある。

 

道三は稲葉山城の山麓に大規模な城下町を建設し、城から伸びる百曲(ひゃくまがり)という道に大桑城(おおがじょう)から町人を移住させた。

城から伸びる主要な道に街が形成されるタテ町型城下町。これはのちに信長や秀吉の街にもみられるものだ。

街の外側には市場を建設。そこでは信長の楽市楽座に先駆けて自由な商取引が行われていたという。

 

信長が経済を重視してあるいは流通を重視して城下町政策あるいは経済政策をしていく、そのお手本になったのが斎藤道三といってもいいだろう。

 

周辺勢力が牙をむいてくる

 

天文13年(1544)尾張の織田と越前の朝倉が土岐氏の復権を名目に稲葉山城に攻めてきた。

織田軍は村に火を放ちながら進軍してきた。その軍勢は2万以上だと伝わる。城下にまで押し寄せる織田軍。

しかし道三は城にこもったまま兵を出さない。

攻めあぐねた織田軍は日没とともに攻撃を中断。

兵を引き上げかけたその時、道三が潜ませていた兵が織田軍を一斉に攻撃した。

不意を突かれた織田軍は狼狽し、敗走。追撃した道三の軍は2千もの兵を打ち取ったとされている。

 

だが、周辺勢力の朝倉、今川などの威力は力を増していた・・・。

 

しかし、織田方から和睦の申し出があった。

 

織田信秀も一族の争い、今川からの圧力に悩まされていたのだ。

この逆境を打開するため信秀は道三のに和睦を申し入れたのだ。

条件として両国間での縁組が条件だった。

信秀の息子信長のもとに道三の娘帰蝶を嫁がせるという条件だった。

道三は帰蝶を信長に嫁がせ織田家と和睦をする。

 

後に道三は娘婿となった信長と対面、信長に「自分の息子はいずれ信長の門前に馬を繋ぐことになる」と言っている。

 

道三は、うつけと言われていた信長の器量を見抜いたとされている。

 

斎藤、織田両者の関係は強固なものになっていた。

 

織田氏の和睦の時を同じくして、天文17年(1548)土岐氏を支援していた越前の朝倉孝景が死去。

 

千載一遇のときを得た道三は、美濃の守護土岐頼芸を近江に追放。

 

名実ともに美濃の国主となり親子二代にわたる国盗りがここに完結する。

 

天文23年(1554)家督を息子の義龍に譲る。

 

親から続いた斎藤道三の国盗り物語は次の代に継承されたかと思われたが、

 

弘治2年(1556)道三と義龍の間で争いが勃発、長良川の戦い。

義龍軍1万7千に対し道三は2千しか集まらなかったという。

結果、長良川の戦いで道三は討ち死に。

 

戦の前日に道三が書いた遺言状が残されている。

 

そこには、終には織田上総介の存分にすべきと書かれている。

道三は美濃を息子の義龍でなく信長に譲り渡すとしているのだ。

 

それから11年後の永禄10年(1567)、道三が亡くなって以来斎藤氏との仲をこじらせていた信長。

稲葉山城の攻略に成功。

 

道三の遺言の通り美濃の国は信長の手に渡った。

 

父から受け継いだ斎藤道三の国盗りの道、

それは、娘婿である織田信長の天下取りへの道に引き継がれていったのであった。