今話題の武将・明智光秀『本能寺の変』の謎に迫る!②

民放で大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀の特集を放送していたので、記事にまとめています。

大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀が巻き起こした謎多き事件こそ、仕えていた織田信長の命を奪った日本史史上最大のクーデター『本能寺の変』

番組では本能寺の変の謎を社会科の教員免許を持つお笑い芸人のあばれる君が先生になり最新の研究で解ってきた謎を調査していくという内容。

今まで、あまり語られることのなかった本能寺の変の謎について紹介をしていました。とても興味深いな内容だったので記事にしてみましたヨ!

番組では謎を3つに分けて調査してました。

<本能寺の変の謎>

  1. 光秀は何故本能寺の変を起こしたのか?
  2. 信長を倒したにもかかわらず、なぜ天下を取れなかったのか?
  3. 明智光秀は実は生き延びていた?

①光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?

 

調査①滋賀県大津市 西教寺

西教寺(googleアース活用)

光秀の心が読み取れる鍵があるといお寺、大津市にある西教寺。

西教寺の入り口にある山門は明智光秀の坂本城の城門を移築したと云われている。

比叡山延暦寺の焼き討ちがあったときに西教寺も焼き討ちにあった。本能寺の変がおこる約11年前の元亀二年(1571)に織田信長は当時独立国家に近かったとされる比叡山延暦寺の焼き討ちを決断、光秀はこの作戦に反対しながらも命令に従い僧侶など数千人を成敗したとされる。

そんな延暦寺には当時の状況が伝えられている。秀吉と光秀は別々の方角から山を上がり比叡山を攻めた。秀吉は逃げる者に寛容だったが、忠実に比叡山を攻めた光秀側の犠牲者は多く出た。

その際に同じ宗派であった西教寺も焼かれた。それを見た光秀が焼き討ちをした翌年から再建にかかった光秀は信長の命で寺を焼き討ち手柄を立てたにもかかわらず、何故城門を移築するなど信長の怒りをかうような行動をとったのだろうか?

そこに本能寺の変を起こした理由があるのではないかと西教寺の住職は語る。焼き討ちの次の日に光秀は西教寺に来て、焼けてしまっているお寺の姿を見て光秀は自分が焼いてしまったことに対して罪悪感に駆られて早く復旧しなければという思いがあったのかもしれない。

光秀はいくら信長の命令とはいえ自分が正しいと思ったことを行うという、考えが変わるきっかけになったのかもしれない。

つまり光秀は信長の命で延暦寺を焼き討ちしたことを後悔し、自分の城から城門を持ってくるなどしてお寺を再建し、今後は自分が正しいと思うことをすると決めた覚悟がこのことから垣間見れる。

そんな光秀が本能寺の変を決心した証が西教寺に残っている。それは明智一族から西教寺に寄付されてたものだ。その物とは花瓶で、箱には明智日向守(明智光秀)から寄付された花瓶と書いてある。

この遺品から本能寺の変の決行をぎりぎりまで迷い続けた光秀の姿が思い浮かぶのだという。花瓶の裏には愛宕地蔵と刻まれている。愛宕とは京都の愛宕神社のことで光秀は本能寺の変の4日前に愛宕神社を訪れたことで信長暗殺を決心したとされている。

本能寺の変の4日前、天正十年(1582)、信長を討つべきか心が揺れ動く光秀は愛宕神社でくじを引いた。一度目は凶、二度目も凶、その後もくじを引き続きようやく大吉が出て決心をし歌を詠んだ

は今 知る 五月かな」土岐氏の名門とされる光秀は今こそ天下を取る時だと解釈されている。

その光秀が詠んだ歌を聞いたであろう花瓶を大切にしていたということは、その自分が決めた想いも大切にしていたということになる。

光秀は日本をより良い国にするために殿である信長を討つと決めた覚悟を忘れぬよう、歌を聞いていた花瓶を大切に持ち続けたのではないかと考えられる。

そして天正十年(1582)6月、光秀は突如1万3千人の大軍を率いて出陣、早朝信長が宿泊していた本能寺を襲撃。この時、光秀は信長襲撃の情報が漏れないよう家来たちには多くを伝えず作戦を立てたと言われるほど徹底していたという。

一方、信長の家来は約100人ほど、謀反を起こしたのが頭のいい光秀と知り信長は「是非に及ばず」(どうしようもない)と言い放ち天下統一を前に49歳の生涯を閉じた。

②信長を倒したにもかかわらず、なぜ天下をとれなかったのか?

 

信長公にも認められるほど頭の良かった光秀、信長を暗殺してまで天下を取れなかった理由とは?

信長の遺体が見つからなかったのが大きな要因だという。

光秀は信長を死に追いやりながらも信長の遺体を見つけることができなかったとされる。つまり、天下統一を目指すうえで信長の死を証明するものがない限り光秀に味方するものは誰もいない。

さらに秀吉が信長はまだ生きていると世に流したため、光秀と仲が良かった武将たちですら味方になることを拒んだといわれる。

なぜ光秀は遺体を見つけられなかったのだろうか?

あまり語られてこなかった本能寺の変の舞台裏が存在する。

調査②京都府京都市上京区 阿弥陀寺

阿弥陀寺(googleアース活用)

信長にまつわる貴重なものがある。

その貴重なものというのが、本能寺の変の時に信長が使った槍先だ。さらにもう一つ、弓も使って本能寺の変の時に戦っていたのでその時に使用していた弓の手袋だ。そしてお寺の敷地内にはなんと信長公の遺骸が埋葬されているとされる本廟所がある。

光秀があれだけ探しても見つからなかった信長公の遺骸が何故この場所に埋葬されているのか?

いよいよここからが教科書にも載らない本能寺の変の舞台裏です。

その事実?はお寺に伝わる巻物に書かれている。

当時、信長公の一番信頼していたお坊さんが開かれたお寺が阿弥陀寺でその時の住職が清玉上人。

阿弥陀寺に伝わる伝記「信長公阿弥陀寺由緒之記録」には、清玉上人は本能寺のことはよくわかっているので裏の垣根を破って寺内に入った。表門は光秀の軍勢が多いので裏から入ったと書かれている。

燃えがる炎を見て清玉上人は本能寺に駆け付けた。ついてみてみると知っている人ばっかりだったので状況を聞いてみると信長公は切腹して首を落とされたと言われた。清玉上人は信長のふりをして戦いなさいと言い、その間に私が遺骸を持ち帰り供養するから任せなさいと言った。清玉上人は本能寺のお坊さんのふりをしてお寺の大事なものを持ち出すふりをして信長公の首を持ち出した。

本能寺の変の最中、清玉上人が信長の遺骸を持ち出したため光秀は見つけられなかったと言う事になる。

このままだと織田家の人たちが光秀に殺されていくので、清玉上人は光秀に会い信長公の首は私が持っているので戦いはここで終わりだと言った。

光秀はお墓を掘り返すようなことは人道的ではない・・・と墓は掘らなかった。暗殺のようなクーデターを起こした光秀だったが、自分の中でルールは守るような人でもあった。

本能寺の変から11日後光秀は秀吉との戦いに敗北。戦場から逃げているところを農民に竹槍で刺され命を落とす。

しかしある文書の存在が知られることで、光秀の死について新説が浮かび上がってきた。

③明智光秀は実は生き延びていた?

 

前代未聞の暴挙に出た明智光秀がその後生き残り続けたという説がある?

調査③再び滋賀県 西教寺

光秀が生き続けた可能性を秘める遺品がある。

それは西教寺建物群の中にある上段の間だ。

上段の間は京都の伏見城から移築されたと伝わる。

伏見城といえば豊臣秀吉公が亡くなられた城である。秀吉が亡くなった年に伏見城の客殿(重要文化財)が移築されたと伝わる。

でも、光秀の菩提寺である西教寺に、光秀を討った秀吉公が大事にしていた遺品を持ってくるというのは不自然なのだが?

と、いうことはもしかしたら光秀公と秀吉公は繋がっていた可能性がある。

本能寺の変の黒幕説にも裏に秀吉がいたと言われている。

本能寺の変には様々な説があるのだがその中の秀吉黒幕説とは本能寺の変が起きた際、約200km離れた中国地方で戦をしていた秀吉が、すべての兵を引き連れながら信じがたいスピードで戻ってきたので本能寺の変を計画した張本人ではないかという説。

光秀と秀吉が手を組んでいたと仮定すると本能寺の変の後二人は戦う必要はない、ということは光秀が死ぬ必要もないと考えられるのだ。

 

調査④京都府京都市右京区 妙心寺

妙心寺(googleマップ活用)

秀吉にゆかりのある妙心寺にも二人のつながりを示唆するものがある。

本能寺の変の後、光秀は妙心寺の仏殿に立ち寄っている。

光秀は何故このお寺に立ち寄ったのか?

妙心寺に光秀の叔父にあたる密宗という和尚さんがおられた。

光秀はこの仏殿のお釈迦様に礼拝をして手持ちのお金を密宗和尚に渡しお寺の何かに使ってくださいといって妙心寺を後にした。

光秀が託したお金で造られたのは何かというと、お風呂なんです。当時は浴槽につかる文化がなくこのお風呂はすのこ状になっており下が釜になっている。釜でお湯を焚くと蒸気が発生するのでその蒸気を浴びて温まったということです。現代のサウナに似てますね。

光秀の叔父、密宗和尚は光秀の死後に光秀から預かったお金でこの大きな浴室を造ったと伝わるのだが何故浴室を造ったのか?

逆族という汚名をきせられているのでその汚名を洗い流すという思いを込めて造られたものなのだ。つまりこれは光秀公を供養するために造られたものとも解釈できる。

 

光秀公ゆかりの西教寺に秀吉公の遺品があり、秀吉公ゆかりの妙心寺に光秀公の供養をする風呂がある。

やはり二人には何らかの繋がりがあったのか?

農民に武士が竹槍で討ち取られたというのはちょっと無理なのではないか?信憑性に欠けるのでは?

もしかすると光秀公は生き延びた説も考えられるのではないでしょうか?

そしてある文書の存在により光秀生存説が浮かび上がってきた。

 

調査⑤滋賀県 福知山城

城内に展示してある明智光秀の肖像画。そこにその文は書かれてある。

明智光秀肖像画(出典:Wikipedia

肖像画について書かれた和歌に光秀が生き続けた可能性を示す箇所があるという。

4行目のあたりに書かれている内容は、光秀は仏門に入って僧侶になるのような意味のことが書かれてある。

この肖像画が書かれたのは本能寺の変から31年後の慶長十八年(1613)だ。光秀は31年後も仏門に入り生きていた可能性もあるというのだ。

通説では光秀は本能寺の変の11日後に竹槍で刺され殺されたとされているが、肖像画には光秀は全てを捨て去り僧侶となったとも読み取れる記述があるのだ。光秀は日光で大きな影響力を持つ僧侶になったという説もあり実際に日光には明智平という地名もある。

光秀は本能寺の変の後も生き続けたのか?

そんな謎多き光秀の遺品があるお寺に眠っているという。

調査⑥京都府 蘆山寺

蘆山寺(googleアース活用)

光秀が戦の時に持っていたものがここ蘆山寺にある。

その戦の時に持っていたというものは、明智光秀が戦の時にお守りとして持っていた守護念持仏である。

高さは約17cmでお顔の彫は光秀が撫で続けたため浅くなったとされている。

一般的にお地蔵さまとはすべての生き物を苦しみから救う庶民に寄り添った仏様とされる。民に光を照らす念持仏を持つことで光秀は常に民に寄り添っていた。光秀は優しい人だったと読み取れることができる。

 

日本の歴史を大きく変えた明智光秀の遺品は今も日本の行方を見つめている。