どこで生まれた?『麒麟がくる』で注目集める明智光秀、出生の謎!

 

明智光秀の出生地については、美濃国であることは分かっても、特定するまでには至ってない

天下統一を目前にした織田信長に謀反を起こし

本能寺で嫡子・信忠もろとも葬ることに成功した光秀の最大の謎の一つが、この出生の地なのです

光秀出生にまつわる伝承の残された地を覗いてみましょう

 

岐阜県可児市-明智城と天龍寺に光秀出生の痕跡を探る

 

最有力とされる明智城誕生説

岐阜県中南部に位置する可児市の東側に築かれた山城・明智城。ここが光秀出生の地で最も有力とされています。

江戸時代に編纂された『美濃国諸旧記』には、平安時代より明智荘と呼ばれた現在の可児市瀨田地域に土岐明智氏の祖、土岐頼兼が長山城(後の明智城)を築き、代々居城としたと書かれている。

瀨田地域の天龍寺には、明智氏歴代と光秀の位牌が安置されている。又、光秀誕生の際に使われた産湯の井戸もあったと伝わる。

土岐明智氏の一族とされる光秀は明智城で生まれたとされ、青年期明智城主としてここで過ごしたのだが、斎藤道三と息子の義龍が争った長良川の戦いで敗れた道三側についていた光秀は明智城を義龍に攻められ美濃から逃れたとされています。

明智城跡

康永元年(1342)に土岐頼兼が瀬田村に築いた山城。明智荘と呼ばれていた地名にちなみ、明智と名のる様になった。光秀は30歳頃まで明智城で過ごしたとされています。

天龍寺

明智城の麓に位置する当寺は、永平寺を本山とする曹同宗の古刹で、本堂には光秀の等身大(184cm)とされる位牌が安置されている。境内には歴代明智家の墓所があり、毎年6月に光秀供養祭が執り行われている。

岐阜県恵那市-美濃源氏・土岐一族発祥の地に伝わる明智光秀の出生地説

 

明智城の出城として宝治元年(1247)に築かれた落合砦。光秀はこの砦で生まれたとされています。この砦に光秀が誕生の時に産湯を使ったとされる井戸が現存しています。

恵那市には、光秀の実母で非業の死を遂げた於牧の方の墓所光秀が若い頃に学んだ学問所があった天神神社、光秀手植えの楓が伝わる柿本人麻呂社など光秀のゆかりの地があります。

落合砦

宝治元年(1247)に明智城の出城として、千畳枚大地に築かれる。光秀はこの砦で生まれたとされて産湯に使った井戸が今も残っています。産湯の井戸案内板には光秀は大永六年(1526)三月十日に生まれたと書かれている。

岐阜県山県市-土岐氏最後の地に伝わる光秀の生誕の地とお墓

 

標高407mの古城山にあった大桑城は土岐氏の山城で戦国時代の築城とされています。

古城山東側の中洞区桔梗塚があります。これは明智光秀のお墓だとされ、桔梗塚の入り口に光秀が産湯に使ったとされる井戸の跡があります。光秀は土岐四郎基頼と地元の豪族の娘との間に中洞で生まれたとされています。

光秀は本能寺の変の後、秀吉との戦いに負け敗走し農民に竹槍で刺され死んだというのが通説ですが、討ち死にしたのは光秀の影武者の荒木山城守行信で、光秀は生き延び西洞寺に隠れ住んだ。そして、諸国遍歴の旅に出てたのだが関ヶ原の合戦の際に、東軍に味方するため戦場に駆けつける途中に、増水した川に転落し亡くなった。その亡骸を同地に埋葬したと伝わり、今でも供養祭が行われているそうです。

桔梗塚

光秀は土岐四郎基頼と地元の豪族の娘との間に中洞で生まれたとされています。そして、光秀は本能寺の変の後に家臣が身代わりになり光秀自身は生き延びたという伝承がこの地方には伝わっています。桔梗塚は光秀の墓と伝えられています。

滋賀県多賀町-光秀は美濃でなく近江で生まれた?

 

近年、大垣市多良で光秀出生に関する新たな発見がありました!

近江国佐目村(現:滋賀県多賀町)には500年前から光秀に関する口伝があった。それは見津という一族に伝わる伝承で、佐目村十二相神社近くに光秀が住んでいた屋敷があったというもので、その口伝が古文書『淡海温故録』に記述している内容と一致したという。今後の研究に注目が集まっています。

十兵衛屋敷跡

十兵衛屋敷跡は十二相神社門前にある。今は案内標柱のみが建っている。十二相神社境内地には樹齢600年の杉の木が林立しており光秀ももしかしたらこの杉を見上げていたのかもしれない。

謎多き光秀、いつ生まれたのか?

 

謎が多い光秀だが生まれた場所が定かではないどころか生年月日もはっきりとはわかっていない。

光秀が生まれたことを記すはっきりとした当時の資料がないのです。

光秀の死後、17世紀前半に書かれた『当代記』には、光秀は数え年の67歳で死去したとあり、本能寺の変から逆算すると生年は永正十三年(1516)になる。もう一つの資料『明智軍記』などで伝わる生年は、享禄元年(1528)と記述されている。

ちょうど一回り異なりますが、専門家等では『明智軍記』に記述されているほうが有力とされています。ほかにも光秀の生年月日を記述した資料はあるのですが、どれも確実性がありません。

『当代記』は元亀元年(1570)~元和元年(1615)までの出来事が記され、『当代記』巻二に明智年六十七と記述されています。同時代の他の資料と照らし合せても裏付けをとれる記述が確認されています。

17世紀前半に書かれた資料で、秀吉の逸話をまとめた『川角太閤記』には、光秀は信長を本能寺で討つ前に、老後の思い出に一夜でも天下に名をとどろかせたいと語ったと書かれています。こえを真に受けると光秀67歳死亡説は頷ける。

享禄元年(1528)生れの説は『明智軍記』や『明智系図』などから検証していますが、同時代の資料と照らし合せても裏付けがとれない記述が多く、光秀の死後から100年以上も経って編まれています。

 

どちらにしても決定的な資料が発見され検証されないと確定は出来ません。小説・ドラマ等では『明智軍記』に記述されている享禄元年(1528)出生説を採用することが多いようですネ。