明智家の黒歴史とは? 明智光秀の出生地は滋賀県で決まり!?

 

大河ドラマ『麒麟がくる』で話題沸騰の明智光秀

二つの古文書から明智光秀出生の謎を歴史学者の磯田道史先生が推察していた

興味深い内容だったので記事にまとめてみました

どうぞ!ご覧下さい。

 

本能寺の変の後に明智光秀がとった不可解な行動とは?

 

 

滋賀県にある多賀神社に伝わっている古文書に明智光秀について書かれている。

 

その古文書とは滋賀県指定有形文化財に登録されている明智光秀直筆の書状『明智光秀 禁制

 

この書状を書いた日付は天正十年(1582)六月六日、本能寺の変の四日後に書かれた書状ということになる。

 

書状には明智軍は多賀大社は襲いませんと書かれている。

 

本能寺の変の後のバタバタしている時になぜ光秀はこのような書状を書いたのでしょうか?

 

磯田先生の推理では、京で信長を討った後に光秀はわざわざ滋賀の多賀大社まで来ているということは、光秀は近江(滋賀)を本拠地にしようとしていたのではないかと言うのです。光秀自身が近江に並々ならぬ本拠地性とか土地勘がある。と言うのです。

 

明智家の黒歴史?古文書の新発見から明智光秀の出生地を推察

 

 

古文書に書かれている明智光秀出生の謎とは?

 

光秀が本能寺の変の後、京で天下取りの体制を整えず、何故わざわざ近江へと移動したのか?

その理由が解明できる資料が発見されました。光秀が滋賀に想いを寄せていることがわかる大発見があっていたのです。

その新発見の資料によると光秀は滋賀の出身だというのだ。大河ドラマをはじめ明智光秀の出身地は美濃が有力だと描かれているのですが、確固たる証拠は発見されていないのです。

ところがこの古文書に書かれている新発見の記録には、はっきりと光秀は近江(滋賀)出身だと書かれているのです。

 

磯田先生は明智家の黒歴史で光秀は近江の出身だとしゃべっていなかったのでは?と推察するのです。

光秀の生涯を年表にしても、1570年頃に信長に仕えるようになってからの行動はわかるのですが、前半生については当時の資料は無く謎に包まれています。光秀の前半生がわかっていないので大河ドラマ『麒麟がくる』では自由に作っているのです。

ドラマでは光秀は斎藤道三に仕えていますが、歴史研究者の間では光秀が斎藤道三と戦うことがあっても仕えているってことはまずないだろうといのが大多数の意見だそうです。

 

謀反は起こしたものの信長の右腕として活躍したような武将ですから出生地、生年月日ぐらいは記録として残っててもいいのではないかと思うのですが?

光秀出生の有力とされる候補地だけでも6カ所もあるのです。

岐阜県の恵那市、瑞浪市、可児市、山県市、大垣市と滋賀県の多賀町です。

岐阜県の光秀出生の候補地には城跡や光秀が使ったとされる産湯の井戸など史跡や伝承が残っています。ところが、奇妙なことに光秀が自分で美濃(岐阜)関係者だと匂わせておいて、光秀が美濃に居た時に自分が書いた手紙とか文書が出てきてもいいのに出てこないのです。むしろ同時代で最初に光秀の確かな存在証拠が出てくるのは滋賀の高島というところなのです。

 

光秀出生について記された古文書が2020年の1月に滋賀県で発見されたのです。この古文書は滋賀県立図書館で所蔵されています。この古文書というのが『江侍聞伝録』(こうじもんでんろく)です。江侍聞伝録とは江戸時代初期の寛文12年(1672)に木村重要という人物が近江の武士の家系などを各地に足を運び聞き取り調査をした取材メモ的な近江の郷土史です。

 

この書物に明智光秀の驚くべき過去が記されているのです。

磯田先生はこの書物は本能寺の変から90年後に書かれているので、木村重要さんが土地の年配の方から話を聞き取材をして記しているので記録としての信憑性はあると言う。

では、江侍聞伝録に書かれている光秀の驚くべき過去とはどんなことかというと、

佐目の里明智十左衛門とうい侍が美濃の国からやってきて二、三代住んだと書いてある。佐目とは現在の多賀町佐目です。光秀が本能寺の変の四日後に訪れた多賀神社の近くなんですね。

佐目とは光秀が本能寺の変の四日後に訪れた多賀大社の近くの小さな集落。山伏が潜むような山深いその地に明智十左衛門が何らかの理由で美濃から佐目に移り住み永住したという。

そして、古文書には息子十兵衛光秀と書かれているのです。

別の一文には光秀は近江で生まれたとこの古文書にははっきりと書かれてあるのです。光秀の出生が書かれている文献としてはこれが最古の文献です。

 

本能寺の変の後、明智光秀は何故近江に移動したのか?

 

さらにこの江侍聞伝録には、光秀が江川(近江)の生まれなので山崎の合戦に當国(当国)衆が参加して皆没落してしまった。と書かれてある。

これらの文から推察すると、光秀は生まれ故郷の多賀神社周辺で味方を募っている間に秀吉の中国大返しを許してしまった。と、磯田先生は言います。

光秀が本能寺の変の後に秀吉にあっけなくやられたのも謎とされてきましたが、江侍聞伝録を読み解くと、光秀は故郷である近江をまず固めようとしたため秀吉がいる西の方面の守備がおろそかになっていたのが原因だというのです。

 

滋賀県多賀町佐目地区には今も伝わる光秀伝説があります。

明智十兵衛(光秀)が住んでいたと伝承されている場所に十兵衛屋敷跡の標柱が立っています。そして、この地区にはちょっと変わった名字・見津(けんつ)と読む家が多くある。

この名字に光秀とのかかわりがあるのです。

地元の人が言うには、この土地に来た明智家を見津一族がかくまっていたと言うのだ。かくまったことによって光秀のからミツをもらいいただいた、そのままの読み方ではおこがましいのでミツでなく見津と書いてけんつと名のるようになったと伝えられているのだ。

しかしながら明智光秀は織田信長を討った謀反人なので見津一族はひっそりと数百年暮らしていたのだとか、大河ドラマ『麒麟がくる』で明智光秀が主人公として描かれるので、ようやく胸を張り語れるようになったと笑顔で話していました。

 

明智光秀美濃出生説が多い理由とは?

 

この江侍聞伝録には極めて具体的に書かれていることが多い。光秀のお父さんのことや明智家は美濃から来た人たちだとか書いてある内容に矛盾は無いのです。

こんなに滋賀に情報が残っているのになぜ当たり前のように光秀は美濃出身だということになっているのでしょうか?

江侍聞伝録に書いてあるしっかりとした内容のものがあるのであれば普通は写本がもっと世に出回るはず。

磯田先生曰く、明智家の黒歴史で近江出身だとしゃべっていなかったのではと推察している。どういうことかと言うと、江侍聞伝録には美濃を退きと書かれているのですが、明智家は何らかの事情で美濃の国を追われて逃げて落ちぶれた状態で近江に住み着いた。近江出身だと言うと何故由緒ある土岐家の流れの明智家が近江に住むようになったのか、理由を聞かれた時に答えたくなかったので美濃出身だということにしたのではと推察している。

 

本能寺の変で長年悪人としてタブー扱いだった明智光秀のことは地元では謀反人の話ができず、光秀本人も近江の出身という事実を隠したため歴史家を悩ませることになっているのかもしれません。

つまり光秀は自分を美濃の守護土岐家の流れを受けている土岐ブランドとしてセルフプロデュースしていたのに近江の出身だとばれるとブランド力が低下するので美濃出身だということにした。光秀の出生がはっきりしていない中、長い年月をかけて昔話として光秀のゆかりのある美濃各地に光秀出生の伝承・史跡が言い伝えられ残っているのではないだろうか。