司馬遼太郎の『国盗り物語』を読み解く⑫槍術「一文銭」,槍、 槍

国盗り物語 斎藤道三 前編 槍術「一文銭」,槍、 槍の章では西村勘九郎が法蓮房時代より独学で学んだ槍術で名声を上げようとする。

国盗り物語より読み解く戦国時代の槍術、剣術についても記載しています。

斎藤道三 前編 槍術「一文銭」,槍、 槍-あらすじ

槍術「一文銭」

 

庄九郎が美濃への帰り支度をしている頃、京に槍の芸を見せる大内無辺という修験者のいでたちをしたものが現れた。

 

毎日何人かが、大内無辺に試合を臨むが誰一人としてかなうものはいないという。

 

この当時、京は噂の生産地。大内無辺はそれを心得て、京の町で槍術というこの当時は珍しい芸をみせていたのだ。

 

(この当時までは槍でなく薙刀が主流だった)

 

庄九郎は山崎屋庄九郎でなく、美濃土岐家の家来西村勘九郎として大内無辺に試合を申し入れた。

 

京で槍の名をあげることによって、うわさが美濃にまでとどくことを期待した。

 

試合は三条河原で行われることとなった。

 

勘九郎は一人だが、大内無辺は門人を五人ほど従えている。

 

三条橋には大勢の見物人が見守っている。勘九郎にとっても大事な客で彼らがしゃべる話は東海、山陽、山陰と広がっていくだろう。話題としての効果は大きい。

 

槍、 槍

 

勘九郎と大内無辺は三条河原で対峙している。

 

勘九郎が、大内無辺にこちらへ来いと言うが、大内無辺は勘九郎にこちらへ来いと言う。

 

が、どちらもよらずに時が過ぎてゆく。見物客も試合がなかなか始まらないので飽きてきた。

 

時間だけが過ぎ、陽が落ちた。

 

大内無辺の門人はかがり火を焚いた。

 

勘九郎も見物客のなかのあぶれ者に銭をあげ火をおこさせた。そして、相手の火を消してきてくれと頼んだ。

 

あぶれ者も最初は嫌がったものの、オレが勝てばあいつらの槍と衣類をくれてやると言った。

 

二十人ほどのあぶれ者は、大内無辺のかがり火を消した。

 

火が消えたと同時に勘九郎の槍が大内無辺を捉えた。大内無辺が慌てたところを刀で斬り倒した。

 

数人の門人も勘九郎の餌食になったが、二人の門人は槍と刀を捨て、衣類を脱ぎ捨て命からがら逃げていった。

 

 

西村勘九郎はそのまま星空の下を美濃へと向かった。

 

京を発ち、7日目で美濃についた。

 

ひと月ほどして京の三条河原の件が、美濃にも聞こえ、頼芸の耳にも入った。

戦国時代の槍術と剣術-国盗り物語より読み解く

戦国時代の槍術

 

平安時代中期以降に主流だった薙刀は徐々に衰え、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてが生まれた。

雑兵用として発達した槍だが、応仁の乱の後、次第に武将も使うようになり、武芸としての槍術が発達していった。

西村勘九郎のこの時代、集団戦の主要武器は槍にかわってしまっていた。

 

勘九郎が大内無辺の槍術の芸に惹かれたのは、この当時は槍の芸といわれるほどの技術はまだ編み出されていなかったからなのだ。

司馬さんは槍術「一文銭」の章で槍術について以下のように記している

 ちなみに、奈良興福寺二万五千石の子院で宝蔵院の住僧覚禅房胤栄(いんえい)が、槍術史上の祖とすべきである。槍術の諸派はほとんどこの宝蔵院から出、幕末にいたるまでこの戦国中期の流祖の編んだ技術以外にさほどの工夫も出なかった。
その宝蔵院は、このころまだ誕生していない。庄九郎よりも一世代後のことになる。

(国盗り物語 斎藤道三編 前編 槍術「一文銭」 より引用)

胤栄(いんえい)は安土桃山時代の興福寺の僧兵で武術家。興福寺子院の宝蔵院の院主。十文字槍を使用した宝蔵院流槍術を始めた。

柳生宗厳とともに上泉信綱の弟子となり新陰流剣術を学び、槍術を大膳大夫盛忠に学ぶなど、多くの師に付いたと伝えられるが、中でも天真正伝香取神道流大西木春見の影響が強く表れている。

素槍に比べ槍としての攻防を多様にする十文字鎌槍の創始は当時の槍術には画期的なものであった。

晩年は僧侶が殺生を教える矛盾を悟り槍術から離れ、僧としての活動を主にした。二代目は胤舜(いんしゅん)が継いだ。

また、福島正則の家臣で勇猛な武将として知られる笹の才蔵こと可児吉長が、初代胤栄に教えを請うた、とも云われる。

司馬さんの短編集『新選組血風録』の「槍は宝蔵院流」では、新選組七番組組長の谷三十郎が宝蔵院流槍術の使い手として登場している。

 

しかし、司馬さんは国盗り物語で、槍術を日本で開創したのは庄九郎だと、庄九郎に語らせている。

庄九郎は京の妙覚寺法蓮房時代から竹藪で、槍の練習をしている。何故竹藪の中で練習をするのかというと、実際の戦場は敵味方の人馬が密集していて周りに気を付けないといけない、それを群集している竹にみたてている。

そして、竹の枝から糸をたらし永楽銭を吊り下げ、その永楽銭の穴めがけて竹でつくのである。

司馬さんはこの練習の様子を、旧記に書かれている言葉で槍術「一文銭」の章で紹介している。

はじめのほどは手のうち定まらず、突き通すことも能はざりしかども、極意も業も一心にありと兵書にいへるごとく、つひには百度、千度、突くといへども一つもはづすことなし。

(国盗り物語 斎藤道三編 前編 槍術「一文銭」 より引用)

日本の槍術の開設の名誉は庄九郎に与えられるべきであろう。と、司馬さんは書いている。

 

戦国時代の剣術

「剣術」という名称については、日本では刀と剣の認識が混ざってしまい、「刀剣」として曖昧となってしまった。日本では中国から伝来した両刃(諸刃)の剣(つるぎ)が廃れ、蕨手刀の流れを汲む片刃の日本刀(かたな)へ完全に移行してしまったためである。

なお、日本における「刀」という言葉は中世(平安時代~戦国時代)では短刀を指し、刀剣といえば太刀のことであった。刀が刀剣(打刀・太刀)を表すようになったのは近世(安土桃山時代)からである。

 

庄九郎のこの時代の槍術は生まれたばかりだったが、剣術はすでに中条流、小田流、神道流、鹿島神流などの流派がおこっていた。

そして、秘伝を習った門人たちが各地で武者修行と称して諸国を歩き回るものが出始めていたころだった。

大内無辺のように修験者のいでたちをした者が多くいたようである。

 

こういう兵法者に対して、戦国武将の態度もそれぞれあったようで、織田信長、豊臣秀吉はまったく無関心だった。

武田信玄は好悪明確でない。上杉謙信は兵法が好きで、みずからも学んでいる。

徳川家康も好きで、家康の兵法好きが諸侯に伝染し徳川初期の剣術黄金時代が出来上がった。

 

司馬さんは、槍、 槍の章で武田信玄の家臣、高坂弾正の言葉で戦国武士の武芸論を記しています。

「戦国の武士というものは武芸を知らずとも済みます。木刀などで稽古するのは太平の世の仕様であります。われら乱世の武士は始めから切り覚えてゆくものでありますから、自然の修練となるものであります」

(国盗り物語 斎藤道三編 前編 槍、 槍 より引用)

国盗り物語 斎藤道三 前編

開運の夜 後の斎藤道三、松波庄九郎は妙覚寺を飛び出したが、乞食に成り下がっている・・・
奈良屋のお万阿 庄九郎は、青烏帽子の源八を討ったといって奈良屋を訪れるが・・・
運さだめ 奈良屋の護衛隊長になった庄九郎、荷駄を備前まで運ぶのだが・・・
小宰相 庄九郎は有年備中守の館に火を放とうとするがそこである女と遭遇するのであった・・・
京へ帰る 荏胡麻の買い付けをしながらも庄九郎は備前一国を盗れないだろうかと形勢を調べる。
淫楽~兵法者 奈良屋の主お万阿は松波庄九郎に会いに有馬温泉を訪れる。
お万阿悩乱~奈良屋の主人 庄九郎はついに万阿を抱き、奈良屋の主人になったのだが・・・
奈良屋消滅~美濃へ 庄九郎は名実ともに奈良屋を盗り、そこから一国を盗るべく美濃へ出立する。
常在寺~朱唇 庄九郎は美濃国に入り、常在寺の日護上人と兄の長井利隆に会う。
深芳野、西村勘九郎 長井利隆に同行し庄九郎は土岐頼芸に会う。名を西村勘九郎とする。土岐頼芸の愛妾深芳野も登場する。
京の夢、お万阿問答 一旦京の山崎屋に戻った庄九郎。庄九郎とお万阿の掛け合いがコミカルに描かれている。
槍術「一文銭」,槍、 槍 西村勘九郎が法蓮房時代より独学で学んだ槍術で名声を上げようとする。
水馬、林の中で 西村勘九郎はひょんなことから深芳野に接近する・・・
天沢履、虎の瞳、深芳野を奪る 勘九郎は得意の槍を使い頼芸と賭けをする・・・
川手城、火炎剣 土岐頼芸の使いで川手城を訪れる西村勘九郎。帰路で闇討ちにあうが・・・
那那姫 西村勘九郎は守護が住まう城を落とすために東奔西走する。
府城乗っ取り、大狂言 西村勘九郎率いる軍勢が守護・土岐政頼が住まう川手城を乗っ取りに向かう。