司馬遼太郎の『国盗り物語』を読み解く⑩深芳野、西村勘九郎

国盗り物語 斎藤道三 前編 深芳野、西村勘九郎では、庄九郎が長井利隆に同行し土岐頼芸に会い、名が西村勘九郎にかわるまでを書いている。

土岐頼芸の愛妾深芳野も登場する。

斎藤道三 前編 深芳野、西村勘九郎-あらすじ

 

深芳野(みよしの)

 

庄九郎は長井利隆に同行し、鷺山殿(さぎやまどの)に会いに行った。

鷺山殿とは、土岐頼芸(ときよりよし)のこで、この時、頼芸は美濃の守護ではない。

兄の土岐政頼守護職で、美濃の中心ともゆうべき川手城(現在の岐阜市正法寺町)に住んでいる。

頼芸は数年前に兄と家督争いをしたが敗れた。長井利隆はこの時、頼芸側についた。その時の縁で頼芸の世話をしている。

頼芸を応援したのには訳があって、頼芸の父、政房から頼まれたからだ。政房は兄の政頼ではなく弟の頼芸に家督を継がせたかったのである。

鷺山殿と呼ばれる土岐頼芸は絵がうまく、このんで鷹を描く。現在でも、『土岐の鷹』という特別な呼び名で名品が残っており、古美術界ではひどく珍重されている。

 

二人は城に入り、土岐頼芸と対面した。

頼芸は庄九郎にあまり期待をしていなかったが、日護上人の同学と聞き、尊敬しはじめた。

二、三言葉を交わし頼芸は庄九郎に興味を持つようになった。長井利隆も推薦したかいがあったと満足気である。

その場で、酒宴になった。

酒宴でも庄九郎の話はおもしろい。京の辻伝説、公卿屋敷の怪奇などをてぶりをまじえて話して聞かせた。

やがて、宴なかばでふすまがひらいた。そこに、土岐頼芸の愛妾深芳野がいた。

庄九郎はうわさには聞いていたが、その美しさに、この世のものかどうか疑わしくなったほどだった。

深芳野は丹後宮津の城主一色左京大夫(いっしきさきょうのだいぶ)の子である。

父が四十二歳の厄年の時の子であった。厄年の子は育たない、家に害をなすと言われているため、姉が頼芸に輿入れをするときに一緒に頼芸に貰われた。姉が正室で深芳野は側室であった。

庄九郎は頼芸から深芳野を紹介され食い入るように見た。

(庄九郎は欲しいとおもった。)

 

西村勘九郎

 

頼芸はよほど庄九郎が気に入ったらしく、常在寺へつかいを走らせ鷺山まで来て相手をしてくれと言うが、庄九郎は仮病を使い断った。

それでも、使者は毎日のように来る、それでも庄九郎は断り続けた。見かねた日護上人は「仮病を使うとか失礼であろう」と言うが、

庄九郎は「貴人の前に出るのは肩がこる。なるべくそういう機会をさけて暮らしたい」と、裏腹なことを言った。

この言葉が頼芸の耳の入り、無欲な男だと感心し、いよいよ庄九郎という人が貴重なもののように思えてきた。

頼芸は長井利隆を呼び出し、庄九郎を美濃にとどめておくか相談をした。

相談を持ちかけられた利隆は妙案を思いついた。

西村の家を継がせればと言うのだ。西村の家というのは、先年、当主西村三郎左衛門が病死し、後継ぎもないまま絶縁していた。

これに頼芸も膝を打ち「それじゃ」と言った。

 

庄九郎が、鷺山に伺候しなかったのは京から届く贈り物を待っていたためだった。

それがようやく届いた。

庄九郎は翌日鷺山へ向かった。

 

庄九郎は献上物の目録を差し出した。頼芸はそれに目を通して子供のように喜んだ。

酒宴になった。深芳野も同席している。

庄九郎は深芳野にも目録を差し出した。それには、唐錦蜀江錦、紅、白粉など堺でなければ手に入らないような渡来品が書かれていた。

頼芸は人の好い笑みを浮かべている。

そして、頼芸の口から当方よりも引き出物があると言い、西村の名跡を継いでくれぬかと言った。

庄九郎は、ありがたくお受けいたしますと平伏した。庄九郎は西村勘九郎となった。

庄九郎は生涯で十三回姓名を変えている。

 

勘九郎は毎日鷺山に出仕した。

出仕するうちに、勘九郎は深芳野が城内の念持堂にこもる習慣があることを知った。

ある日、勘九郎は念持堂に入り、深芳野の来るのを須弥壇の裏で待った。

勘九郎は深芳野に、「あなた様を、いつか殿からもらい受ける」とだけ言い外へ出た。

深芳野、西村勘九郎に出てくる用語・人物

あらすじの太字を解説しています。

 

長井利隆-庄九郎が京都妙覚寺で得度を受けていた時、机を並べて共に学んだ南陽房(日護上人)の兄。生没年不明。

鷺山殿-鷺山城にいる土岐頼芸のことをそう呼んだ。

土岐頼芸-美濃の守護土岐政頼の弟。兄と家督争いで一戦交えたが敗れて、鷺山城に住んでいる。後に斎藤道三に追放される。

土岐政頼-美濃の守護。頼芸の兄。後に、西村勘九郎(斎藤道三)の攻撃を受け、越前・朝倉氏の元に身を寄せることになる。

守護、守護職-鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官。

川手城-文和2年(1353)に築城されている。享禄3年(1530)廃城。現在は、済美高校の校内に石碑があり、当時の土塁の一部も残っている。

土岐の鷹-土岐頼芸を始め、頼忠、富景、頼高らが描いた「鷹の図」は、土岐の鷹として高い評価を得ています。

日護上人-庄九郎が京都妙覚寺で得度を受けていた時、机を並べて共に学んだ南陽房。庄九郎は日護上人を頼って美濃へくる。

深芳野-一色左京大夫義清の娘ともされる。『美濃国諸家系譜』によれば、美濃国一の美女であったとされ、身長は六尺二寸(約187cm)もあったという。

丹後宮津-現在の京都府の北部に位置する宮津市。

一色左京大夫-深芳野の父といわれているが詳細は不明。

常在寺-日護上人のお寺。庄九郎が寝泊まりしている。斎藤道三以後の斎藤氏3代の菩提寺。重要文化財に指定されている斎藤道三肖像画と斎藤義龍肖像画が所蔵されている。

西村三郎左衛門-長井利隆の親戚だが、病気で亡くなり後継ぎもいなかった。庄九郎が継ぎ西村姓を名乗ることになる。

唐錦-中国から渡来した錦。その紅色のまじる美しさから、多く紅葉などにたとえられる。

蜀江錦-中国四川省の蜀地方でつくられた赤地錦。

西村勘九郎-世継がいなくなった西村三郎左左衛門の西村の姓を庄九郎があたえられた名前。

念持堂-私的に礼拝するための仏像が置かれたお堂。

須弥壇-仏像等を安置するために一段高く設けられた場所のこと。

国盗り物語紀行

鷺山城跡

守護土岐氏が治めていたかつての美濃の中心地。一時、土岐頼芸の居城だったと言われています。

・鎌倉時代の文治年間(1185年 – 1190年)、佐竹常陸介秀義が築城
・永正6年(1509)土岐政房の命で斎藤利綱が福光御構(蝉土手城館)の普請を行っており、川手城から鷺山城に美濃守護所が移された。
・永正16年(1519)に土岐政房が死去すると、土岐頼武と守護代・斎藤利良は福光御構に入った。
・享禄3年(1530)土岐頼芸方が戦に勝利し、頼武は大桑城に入った。
・天文17年(1548)家督を息子の斎藤義龍に譲ると道三は鷺山城に隠居
・弘治2年(1556)長良川の戦いで義龍は道三を攻め滅ぼし討ち取った。この戦いの後、鷺山城は廃城となったとされる。

鷺山城跡の地図(googleマップ活用)

国盗り物語 斎藤道三 前編

開運の夜 後の斎藤道三、松波庄九郎は妙覚寺を飛び出したが、乞食に成り下がっている・・・
奈良屋のお万阿 庄九郎は、青烏帽子の源八を討ったといって奈良屋を訪れるが・・・
運さだめ 奈良屋の護衛隊長になった庄九郎、荷駄を備前まで運ぶのだが・・・
小宰相 庄九郎は有年備中守の館に火を放とうとするがそこである女と遭遇するのであった・・・
京へ帰る 荏胡麻の買い付けをしながらも庄九郎は備前一国を盗れないだろうかと形勢を調べる。
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お万阿悩乱~奈良屋の主人 庄九郎はついに万阿を抱き、奈良屋の主人になったのだが・・・
奈良屋消滅~美濃へ 庄九郎は名実ともに奈良屋を盗り、そこから一国を盗るべく美濃へ出立する。
常在寺~朱唇 庄九郎は美濃国に入り、常在寺の日護上人と兄の長井利隆に会う。
深芳野、西村勘九郎 長井利隆に同行し庄九郎は土岐頼芸に会う。名を西村勘九郎とする。土岐頼芸の愛妾深芳野も登場する。
京の夢、お万阿問答 一旦京の山崎屋に戻った庄九郎。庄九郎とお万阿の掛け合いがコミカルに描かれている。
槍術「一文銭」,槍、 槍 西村勘九郎が法蓮房時代より独学で学んだ槍術で名声を上げようとする。
水馬、林の中で 西村勘九郎はひょんなことから深芳野に接近する・・・
天沢履、虎の瞳、深芳野を奪る 勘九郎は得意の槍を使い頼芸と賭けをする・・・
川手城、火炎剣 土岐頼芸の使いで川手城を訪れる西村勘九郎。帰路で闇討ちにあうが・・・
那那姫 西村勘九郎は守護が住まう城を落とすために東奔西走する。
府城乗っ取り、大狂言 西村勘九郎率いる軍勢が守護・土岐政頼が住まう川手城を乗っ取りに向かう。