司馬遼太郎の『国盗り物語』斎藤道三編を読み解く①~開運の夜~

斎藤道三 前編 開運の夜の章-あらすじ

 

永正14年(1517)6月20日

 

京は応仁の乱以来の戦乱で、廃墟と化している。

 

後の斎藤道三、松波庄九郎が御所の紫宸殿のやぶれ築地に腰をおろしているところから物語は始まる。

 

松波庄九郎は妙覚寺を飛び出したが、乞食に成り下がっている。

寺を出る時に、赤兵衛という寺男が「家来にして下され」と、ついてきている・・・。

 

京の東洞院二条に畿内有数の油問屋奈良屋がある。

奈良屋では油の原料そのものを遠国から運んでいたが、

道中で盗賊から襲われないために、荷頭を雇い護衛隊を編成し輸送隊を守っていた。

 

庄九郎はその荷頭の位置を横取りしてやろうと画策する。

 

松波庄九郎の素性

 

司馬遼太郎さんはこの章で松波庄九郎の素性について説明しています。

 

京の西郊、西岡の生まれでかつては妙覚寺本山の僧で知恵第一の法蓮房と呼ばれ、と褒めたたえ、

 

続けて、知恵第一どころか、学は極め弁舌も劣らず、さらに舞も出来、鼓も打て、笛は名人の域。もっとさらに、寺でも教わってない刀槍弓矢の術まで、神妙無比の腕前と、

後の斎藤道三を、褒めちぎっている。

非常に優れた人で文武両道の人だったというのが伝わってくる。

 

だが、寺を出て、俗名を松波庄九郎という名にした、後の斎藤道三はこの時は乞食にまで成り下がってしまっている。

 

永正14年(1517)の京の現状

 

司馬遼太郎さんはこの章で京の現状を説明しています。

 

応仁の乱以来の戦乱で、御所も廃墟と化し、弘徽殿仁寿殿の屋根は落ち、柱は朽ちている。

天子でさえも極貧人で、雑色が毎日京都中を駆け回り一握りのお米を手に入れていた。

先帝(後土御門帝)が亡くなって17年経っているが葬儀もしていない。後柏原帝の即位の費用もない。

 

と、応仁元年(1467年)~文明9年(1478年)の約11年間にわたって継続した内乱、応仁の乱によってその後もずいぶん長い間、京の町が荒廃していたことが分かります。

 

又、民衆だけでなく、天子までもがその被害を被っていたというのが驚きですね。

 

永正の時代は既成の価値がことごとく滅ぎていくという、そんな時代だったのです。

 

開運の夜の章に出てくる用語

 

応仁の乱-室町時代の応仁元年(1467年)~文明9年(1478年)のまでの約11年間にわたって継続した内乱。 室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。

御所-主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。

弘徽殿-平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。転じて、弘徽殿を賜った后妃の称としても使われる。

仁寿殿-平安京の内裏における殿舎のひとつ。中殿とも後殿とも呼ばれた。

天子(てんし)-中国や日本で用いられた君主の称号。天命を受けて天下を治める者の意。

雑色(ぞうしき)-. 日本の律令制下の令外官の1つである蔵人の職位の1つ。

後土御門帝(ごつちみかどてい)-日本の第103代天皇享年59。葬儀の費用も無く、40日も御所に遺体が置かれたままだった。近衛政家による『後法興院記』に記されている。

後柏原帝(ごかしわばらてい)-日本の第104代天皇。応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は26年におよんだが、即位の礼をあげるまで21年待たなくてはならなかった

 

開運の夜の章で司馬さんが説明している資料

 

斎藤道三の風貌

 

司馬さんは岐阜市の日蓮宗常在寺を訪れて、重要文化財にもなっている絹本著色斎藤道三像を見て、この章で道三の風貌を描写しています。

 

以下、原文のまま

岩彩は変色剥落している。が、しさいに描線をたどれば、たれの眼にでもありありとその骨柄、人相をうかがうことができる。丈の十分にある筋肉質の骨柄で、贅肉はない。顔は面ながで、ひたいは知恵で盛り上がったようにつき出ている。下あごは、やや前に出、眼に異彩があり、いかにも機敏そうな男である。

(国盗り物語 斎藤道三 前編 開運の夜より引用)

 

絹本著色斎藤道三像がこちらです。

 

絹本著色斎藤道三像(出典:Wikipedia)

 

 

司馬史観-歴史を俯瞰して一つの物語と見る

 

斎藤道三に関する資料は少なく謎の多い人物です。

 

道三像を1枚見ただけで、ここまでの人物評ができるなんて、

 

このような人物評が、いわゆる司馬史観と言われるものなのでしょう。

 

斎藤道三は江戸時代から評価の定まっていた人物です。日本の歴史上、これほどの悪人はいないとされてきました。

 

しかし、司馬さんは、そんな悪人がどうして美濃一国の大名になってしまったのか?と疑問に思いました。

道三が美濃へ行くと、多くの人が彼に魅力を感じたらしい。魅力とは何なのか?と考え込む。

 

そこで司馬さんは道三の履歴を追ってみることにしました。

 

道三は権力が渦巻いている京で育っており、そこで権力というものの儚さを知ることになる。

 

そして、日蓮宗妙覚寺で僧となり知恵第一の法蓮房とたたえられている。

司馬さんは日蓮宗で勉強をしたのが大きなプラスになったと言います。

それはなぜかというと、のちに彼が中世的な貴族社会に入って行くときに、大きな評価を受けます。

まず、お行儀が出来たからですね。中世はなにかと行儀作法がやかましい時代だからです。

仏寺の生活を通じて道三が相当の教養を身に着けていたのは確かだと司馬さんは言います。

 

そして、寺を出て油商人になり、諸国の情報を得て、物事を経済的にとらえる感覚、能力を身につけた。

油を売っている間に山崎屋という油問屋の旦那までになってしまう。

 

そうすると、野望を持ち「国主になりたい。どこか盗りやすい国はないか」と京に近い美濃に目をつける。

 

司馬さんは言います。道三の時代、国主の土岐氏の力が落ち込んでいて新興勢力の織田信秀、北近江にも強力な勢力がおこりつつある。

このままだと美濃は人に盗られるのではないのか。一村ずつつぶされていくのではないのか。誰か英雄が出てきて、固めてくれないかという機運が熟しつつあった。と、司馬さんは考えたのです。

さらに、この点を道三は分かっていただろうと考察しています。

 

それで道三は一人で京から美濃に行き、古ぼけた家柄だけ残っている土岐家を乗っ取ってしまう・・・。

 

 

司馬さんはこの司馬史観で独自の斎藤道三を書き上げ、江戸時代の頃から定説となっている斎藤道三悪人説を、

『国盗り物語』を世に出すことで、新しい道三像、道三正義説を広めることになりました。

 

司馬さんの言う正義とは何かというと、道三自身が登場しなければ、美濃は滅びてしまう。ということです。

つまり、悪人の代名詞のように言われた道三の悪とは、無能ということでした。

 

政治的な環境に鈍感な土岐氏は、美濃を食いつぶす白アリ以外の何物でもない。体制を新しくして秩序を立て直し、しかも治安を良くして民衆を守る。道三はこれこそ正義だと自分を信じ込ませたと私は想像すると司馬さんは言っています。

 

司馬さんの歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観が感じ取られます。

 

歴史上の人物に対する愛情のこもった観察眼こそが司馬史観だと私は思います。

 

国盗り物語 斎藤道三 前編

 

開運の夜 後の斎藤道三、松波庄九郎は妙覚寺を飛び出したが、乞食に成り下がっている・・・
奈良屋のお万阿 庄九郎は、青烏帽子の源八を討ったといって奈良屋を訪れるが・・・
運さだめ 奈良屋の護衛隊長になった庄九郎、荷駄を備前まで運ぶのだが・・・
小宰相 庄九郎は有年備中守の館に火を放とうとするがそこである女と遭遇するのであった・・・
京へ帰る 荏胡麻の買い付けをしながらも庄九郎は備前一国を盗れないだろうかと形勢を調べる。
淫楽~兵法者 奈良屋の主お万阿は松波庄九郎に会いに有馬温泉を訪れる。
お万阿悩乱~奈良屋の主人 庄九郎はついに万阿を抱き、奈良屋の主人になったのだが・・・
奈良屋消滅~美濃へ 庄九郎は名実ともに奈良屋を盗り、そこから一国を盗るべく美濃へ出立する。
常在寺~朱唇 庄九郎は美濃国に入り、常在寺の日護上人と兄の長井利隆に会う。
深芳野、西村勘九郎 長井利隆に同行し庄九郎は土岐頼芸に会う。名を西村勘九郎とする。土岐頼芸の愛妾深芳野も登場する。
京の夢、お万阿問答 一旦京の山崎屋に戻った庄九郎。庄九郎とお万阿の掛け合いがコミカルに描かれている。
槍術「一文銭」,槍、 槍 西村勘九郎が法蓮房時代より独学で学んだ槍術で名声を上げようとする。
水馬、林の中で 西村勘九郎はひょんなことから深芳野に接近する・・・
天沢履、虎の瞳、深芳野を奪る 勘九郎は得意の槍を使い頼芸と賭けをする・・・
川手城、火炎剣 土岐頼芸の使いで川手城を訪れる西村勘九郎。帰路で闇討ちにあうが・・・
那那姫 西村勘九郎は守護が住まう城を落とすために東奔西走する。
府城乗っ取り、大狂言 西村勘九郎率いる軍勢が守護・土岐政頼が住まう川手城を乗っ取りに向かう。