これで関門海峡の歴史が分かる!~近世編-長州藩小倉藩~

 

2019年は赤間関市施工130年、門司市施工120年、下関港・門司港の特別輸出港指定130年、開港120年、九州鉄道開業130年という関門海峡にとって節目の年です。

数年前から門司で行われている関門学講座でこの節目の年に今までの総集編ということで時間軸の今回は近世での関門海峡の情景役割をレビューに纏めてみました。

赤間関

長州藩

中世、大内氏が約150年にわたり関門海峡を治めていましたが家臣のクーデターにより大内氏に替わり毛利氏が関門海峡を治めるようになりました。北部九州は豊後国の大友氏が治めこととなる。

慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で西軍に味方した毛利氏は、毛利輝元が安芸国など8国112万石から周防・長門2国に減封され、毛利秀元は長門国1国ほか17万石から長府藩6万石に減封された。

長州藩には五つの家が領有しており、萩藩36万9千石(支藩領含む)、長府藩5万石、徳山藩4万100石、清末藩1万石、岩国吉川家6万石である。長府藩は享保3年(1718年)に断絶するが清末藩2代藩主毛利元平が長府藩主に就任することで再興される。

                                                                                                        長府城下町 撮影:ryoujiro

赤間関

この時代徳川幕府が鎖国という対外政策をとったため対外貿易は停止し関門海峡の国際性は喪失してしまう。

寛文年間(1661~1673)の北前船の東廻り・西廻り航路の整備などによって、全国的な交通・流通網が発展する。赤間関は北前船の西廻り航路の中継港として発展することとなる。

廻り船の形態としては運賃積みと買い積みがある。運賃積みとは目的地(主に江戸・大阪・長崎)までの物資輸送(主に年貢米)を行い荷主から運賃が支払われること。買い積みとは自己資金で購入した荷物を高く売れる地域に運んで売却することで、地域は限定せずどこでもよく多種多様な物資を運び地域格差を利用して利益を上げていた。

赤間関は中継市場としての役割を担い、多くの航路が結節し、多様な地域からの廻り船が入港していた。各港と大阪の適度な距離を有する赤間関は大量の荷物を引き受ける資金力・商業組織をも有していた港だった。

赤間関での取引

長府藩は赤間関での問屋の営業権を保証問屋は藩に運上銀を納めていた。問屋は赤間関に入港する廻り船同士の取引の仲介を行い仲介料を得ていた。この仲介料は長府藩が公定をしていた。

取引が成立しない場合は、積荷を担保とし貸金などを行い後日取りに来るか問屋に委託販売を依頼した。そうすることで廻り船は効率的な運航が可能になり新たな資金調達をも可能にした。問屋のほうは倉庫料や利子収入が得られ積荷が担保になるため貸し倒れのリスクは少なかった。

赤間関での問屋の数は長府藩から問屋株を免許された408軒あった。かなりの数だ、当時の賑わいがこの数だけからでも想像できるだろう。

長府藩は赤間関での取引を円滑にするための法令を下記の通り制定していた。

<赤間関での取引法令>

  • 問屋株を持たない者の取引禁止
  • 問屋と廻り船の直接取引禁止
  • 他領との取引禁止
  • 廻り船から港湾整備員を徴収

赤間関の問屋組織は廻り船の立場に立って商売を仲介・成立させる存在であることで、多くの廻り船(買付船)が赤間関に入港したのだった。

赤間関の西隣で

享保3年(1718年)萩藩は長府藩と領地を交換することで、赤間関西隣の今浦を藩領とした。宝暦12年(1762年)萩藩は大規模な埋め立てを開始し、今浦は伊崎新地などと称されるようになる。

埋め立ての目的としては港町としての開発だったが入港する廻り船が少なく赤間関に依存する状態だった。

田野浦

小倉藩

近世、長州藩は毛利家が治めていたが小倉藩はというと関ヶ原合戦直後の慶長5年(1600)~寛永9年(1632)までを細川家、寛永9年(1632)~明治4年(1871)までを小笠原家が治めていた。

田野浦

古代・中世では門司の港が要所を務めていたが近世になると田野浦が北前船の補完港としての役割を担うようになる。これは田野浦の地形が風避け潮待ちなど船を停泊させるのに適していたからだ。船の数が増え流通の拠点となってゆくと藩もこれを重要視し公的施設を設置していった。

江戸時代初期、田野浦村の人口は100人ほどだったが幕末の頃には600人に膨れ上がっている。田畑の数は増加しておらず商業・工業の生産が確立していったものと思われる。

又、田野浦には遠見番所を設け小倉藩領内の玄界灘~関門海峡~周防灘を行き来する唐船の密貿易を監視した。

                                                                                                       現在の田野浦 撮影:ryoujiro

まとめ

中世に海外との接点があった関門海峡も近世は徳川幕府の鎖国政策により対外貿易という機能は停止してしまう。

関門海峡一帯を一つの藩が統治するのではなく赤間関は長州藩門司田野浦は小倉藩が統治した。古代中世は門司の港が重要視されていたが、近世は田野浦がその地形を利用し北前船の停泊場となり栄えた。

近世から近代へと変貌する関門海峡の情景は次回の記事でレビューします。最後まで読んで下さりありがとうございました。