これで関門海峡の歴史が分かる!~-中世編-大内氏毛利氏~

 

2019年は関門海峡にって節目となる年で、赤間関市施工130年、門司市施工120年、下関港・門司港の特別輸出港指定130年、開港120年、九州鉄道開業130年とその歴史を刻んできています。

数年前から門司で行われてきた、なるほど関門学講座は今回が集大成で、関門海峡での港と船、駅と鉄道、交通や貿易、下関と門司の関係役割を時間軸と点(出来事/場所)から見つめ返す講座を受けてきました。時間軸を中世にスポットライトを当てレビューに纏めてみました。

大内氏の関門地域での支配

大内氏の関門デビュー

大内氏は14世紀半ばに長門国に進出し、14世紀後半には豊前守護職を獲得するも応永の乱(大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱)でいったん職を失う。

15世紀初頭には回復に成功し、滅亡までの約150年間関門地域を治めることになる。関門地域での渡賃を定め、赤間関(下関)・門司関で関銭(入港料)を徴収していた。

大内氏の奉公人には幡生(現在の下関幡生)を本拠地とした幡生氏や門司(現在の北九州市門司区)を本拠地とした門司氏がいた。当時アジア大陸まで航海した遣明船に門司の名がついた「門司泉丸」「門司宮丸などがあり、門司のブランドが海を渡っていたということには感慨深いものがある。

対外航行での赤間関・門司関の機能

この時代外交使節の入国時に、博多・赤間関・兵庫の3か所でチェックされており、赤間関には、抽分司(遣明船に乗船した商人が経営者に貿易利益の一部を支払ったものを徴収・管理に当たる機関)が置かれていた。

遣明船は往路・復路ともに赤間関に寄港し、使節団は永福寺に宿泊されていた。先ほど門司のブランドが海を渡ったと書いたが、遣明船が寄港していたのは赤間関である。船名に寄港した地名でなく対岸の門司が採用されているのは何か面白い話で、ごろがよかったのか門司に船大工が集結していたのか、そんな些細なことだが想像を掻き立たせてくれる。

関門支配のしくみ

守護である大内氏を頂とし守護代、郡代を置いていた。守護代には大内氏の重臣が任じられた。必要に応じて奉行(代官)が置かれた。関門地域には、長門・豊前両国の守護代と赤間関・門司関それぞれに代官が置かれていた。

赤間関においては、代官が港の管理(入港出港のチェック、入港料の徴収)を中心とした限定的な事を行い、守護代の内藤氏が赤間関を領有し、町政・徴税等に関与していた。

毛利氏の関門地域での支配

毛利氏の関門地域での支配

16世紀半ばに家臣団によるクーデターが勃発。その混乱の最中に、当主大内義長が長福寺(現在の功山寺)で自刃し、ここに約150年続いた大内氏が事実上滅亡した。大内氏を滅ぼした毛利氏が赤間関の新たなな支配者に君臨する。

ここから毛利氏が歴史の表舞台へと登場してくる。そして時代の移り変わりとともに長州藩として幕末を迎えることになるのだが、この時はまだ知る由もない。

                                                                                                                                                   功山寺  撮影:ryoujiro

 

領国の戦後処理

毛利氏は領国をまとめるにあたりまず戦後処理をしなければならない。これには大内氏の奉行人を登用し毛利氏の奉行人とともに円滑な戦後処理を遂行した。だが、戦後処理が終われば大内氏奉行人は表舞台からは消えていった。無情だがそれがこの時代の政というものかもしれない。

奉行、郡代、守護代の整備

毛利氏は山口奉行に吉川氏の一族である市川氏を起用した。大内時代より群ごとに郡司を配置していたがこれは大内氏の郡代を継承した。長門守護代には毛利家に近い当主隆元の義弟の内藤隆春を起用した。毛利家に近いということで気も許せるということもあったのだろう山口奉行を補佐させながらまだ油断ならない領地の整備を進めた。

毛利氏は周防・長門両国は治めているものの、九州北部では大友氏の支配下に下った。が、永禄年間初頭(1550年代)には九州北部に進出し仁保氏を門司城番に起用し守りを固めた。

赤間関の直轄支配

大内時代の赤間関は大内家が代官を配置し、領有者は内藤氏だったが、毛利氏は赤間関を内藤氏から収公し直轄関とした。内藤氏には代替えとして豊田地方を与えた。直轄関とした赤間関には改めて代官を設置した。

代官としての活動は町政への関与、城普請、物資の調達・輸送、明の商人との貿易等多岐に渡る。

関門地域の側面

毛利氏は永禄年間に九州北部をめぐって大友氏と争っていた時は火の山城を重視していたが、毛利氏が九州から撤退し情勢も落ち着くと町の支配や流通・経済面が重視され次第に火の山城に代わり鍋城(今の下関市役所付近)が重視されるようになった。

交易も石見銀山のシルバーラッシュにより、大陸から訪れる商人が行き交い大いに賑わった。

                                                                                                                                                                   撮影:ryoujiro

大内氏、毛利氏との比較

大内時代は朝鮮や明との通行を進め、関門地域は大内氏の対外交通を支える拠点を有していた。さらに大内氏の勢力が九州北部までに及んだことから関門地域一体を支配することができた。

毛利時代になると赤間関を直轄領にしたことで大内時代に比べると代官の活動が多様化した。遣明船の行き来はなくなったものの商人との交易は活発に行われていた。大友氏との争いの結果、九州からは撤退した為、関門地域全体の一体的な整備は大内時代に比べれば後退した。

中世の関門海峡は大内氏、毛利氏によって整備され日本だけでなくアジアとの交易により栄えていた。大内氏が約150年間整備し統治した後、毛利氏が支配体系を変えながらも統治した。九州は手放したものの下関を幕末まで毛利家が治めることになるのだから歴史の歯車はどこで変わるかわからない。

近世はこの関門海峡がどのように変貌していったのだろうか、九州北部の覇権はどうなったのか?その情景は次回記事にて纏めます。最後まで読んで下さりありがとうございました。