司馬遼太郎さんも街道をゆくで訪れていた朽木の興聖寺

 

大河ドラマ麒麟がくるで、

 

 

向井理さん演じる足利義輝が京を追われ近江の朽木に逃げのびていた場面がありましたが、

 

 

司馬遼太郎さんが街道をゆく湖西のみちで朽木の興聖寺を訪れていたので紹介します。

 

街道をゆく 湖西のみち

 

この一文で始まる街道をゆく。

「近江」
というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。

(街道をゆく 湖西のみち 楽浪の志賀 より引用)

 

司馬遼太郎さんは晩年、ライフワークとして街道をゆくを精力的に執筆されました。

 

その記念すべき第1回が近江を訪れた湖西のみちです。

 

湖西のみちの構成は、楽浪の志賀、湖西の安曇人、朽木渓谷、朽木の興聖寺と4章に分かれています。

 

楽浪の志賀では琵琶湖水軍や穴太の黒鍬について触れ、湖西の安曇人では日本人のルーツ安曇の由来について書いている。

 

朽木渓谷の章では、朽木渓谷を訪れた時は夜だったので渓谷の情景には触れず、

 

元亀元年(1570)4月に織田信長が浅井朝倉に挟み撃ちにされた為、猛烈な勢いで退却した時、松永久秀の案で朽木谷を引き返すことになった経緯を説明しています。

 

朽木の興聖寺の章では、朽木の杣・道路に沿っている溝・日本と渤海国との関係・興聖寺と将軍足利義晴のことを書いています。

 

 

朽木の杣

 

とは 樹木を植え付けて材木を取る山という意味です。

 

杣の歴史は古く、古代律令国家や荘園領主が,造都や寺院などの巨大造営物の建設用材を確保するために指定した山林です。

 

平安時代を通じて杣は荘園化してゆくが,朽木杣は寂楽寺領朽木荘へと転化する。

 

朽木の街道町の地名は市場と言い、四方が山で囲まれており、市場の四方の山坂から朽木の杣人が降りてくる。

 

北方だと途中谷や自在坊、西方は木地山や横谷、西側の別の山坂だと雲洞谷(うどうだに)や家一(えべつ)がある。

 

「近江興地志略」に朽木市場として「四の口あり若狭口・京口・高島口・大溝口是也。是より北へ行けば若狭道也、南へ行けば京師道なり十二里あり」と記していることから交通の要衝であったことが分かります。

 

道路に沿っている溝

 

朽木の市場はまちといっても、一本の道路の両脇に建物が建っている街並みです。

 

その道路の脇に溝が流れています。

 

司馬さんはこの溝を眺めて、昔は旅人が馬の足を洗ったり、地の人は野菜を洗っただろうと昔の風景を想像しています。

 

水の流れが速いのは西方の木地山から勢いよく落ちてくる流れを引き込んであるためで、

 

溝廻りは石で囲って堅牢につくられていると溝の状態を説明し、

 

石仕事では諸国で並ぶ者がいないといわれると、湖西人の仕事っぷりを褒めたたえています。

 

 

この街道をゆくで朽木に訪問している時に現地の人にこの溝に名称はあるのかと尋ねたところ、

 

「川と言います。」とけげんなふうで言われたそうです。

 

本と渤海国との関係

 

中国の満州あたりにあった渤海国から平安初期に日本は兄上ですとしきりに国司がきていた。

 

若狭湾は上代、大陸からの航海者を扱い入れる吸入口の一つであっただろうから、この朽木の古道も国司たちが通ったであろうと推察している。

 

又、若狭湾に浦島太郎伝説が多いのは、日本海をへだてて海の向こうにあった渤海国の宮廷の女性は乙姫のような服装をしていたからだろうと想像をしています。

 

日本国は渤海国からの国司を只珍しく思うばかりで、又、その当時の平安貴族は中国的教養があるため国司が持ってきた何倍もの手土産を持って帰らせていたため経済的にはずいぶんつらかっただろうと、当時の平安貴族を司馬さんは気遣っている。

 

 

一つの古道から当時の景色、社会情景、昔話までを語れるというのが司馬遼太郎さんの魅力なのでしょうね。

 

 

勃興国は日本の知らぬ間に滅んだ。

 

日本ではいつのまにかあいつら来なくなったなあと公卿さんたちはつぶやいたに違いないと司馬さんは想像しています。

 

 

興聖寺と将軍足利義晴

 

興聖寺を訪れた時に司馬さんは、お寺の境内につづく五百坪ほどの草っ原にある奇怪な一群の岩石を見て、

 

ひょっとするとここは、足利義晴の流浪地だったのではと、突き飛ばされるような衝撃を受けたそうです。

 

この場所が大河ドラマ麒麟がくる11話の麒麟がくる紀行で紹介されていた旧秀隣寺庭園(足利庭園)ですね

 

司馬さんが最初にここを訪れた時には、子供が石の上にのぼったり隠れたりして遊んでいたそうです。

 

山から下りてきた村の人にこれはお庭でしょうと聞くと、公方様のお庭ですと教えてくれたとか。

 

観光という自然破壊のエネルギーはこの朽木までおよんでおらず、

 

室町期の将軍の姿をしのぶにはこれほどふさわしい光景はないだろうと述べています。

 

 

街道をゆくの執筆がはじまったのが昭和46年(1971)からです。

 

司馬さんは豊かになっていく日本の姿を目の当たりにしながら、今の文明にはOKだとは言えないと発言しています。

 

ですから、この興聖寺のお庭を見た時の喜びようは半端じゃなかったでしょう。

 

今ある日本の風景をちゃんと見届けておきたいというのがこの街道をゆくの執筆の源になってるのではないかと思われます。